枕草子「草の庵」について 

                      文責:牧野紀元

先ず、インターネットから「ラフェットの備忘録」の一節をを引用

斉信(ただのぶ)が引用した第三四句の意は、
牛二・李七・庾三十二(ぎうじ・りしち・ゆさんじふに)等の友人は員外郎として
尚書省に奉職しているから、天子の錦帳の下に侍して華やかな日を送っているが、
自分は都を遠く離れて廬山の下に侘び住まいし、夜の雨を独り淋しく聞いて、栄枯の
無情を観じているという心である。

清少納言を疎外していた斉信が、清少納言に、その侘びしさを白詩によって答えさせ
ようとしたのであろう。
【清少納言が答えた「草の庵を誰かたづねむ」は、この時代随一の歌人藤原公任
(ふじわらのきんとう)の公任集にある、

九重の花の都をおきながら」(蔵人たかただ)+「草の庵を誰かたづねむ」(公任)

という連歌の、公任の下の句を清少納言が借用したもの。
このとっさの気転が、清少納言の危機を救っただけでなく、一発逆転満塁ホームラン
になったわけです。 』

少々、判かりにくいので、以下、私論で補足します。

 九重の花の都をおきながら
             草の庵を誰かたづねむ

斉信は、洛外の廬山で侘しく雨の音を聴いていると誇張した漢詩の一節を
贈ってきた。実際は花の都に居ても侘び住まい中だとの意かーーー?
ーーーでは、斉信様の今の気分は”草の庵の侘び住まい”かと察する清少納言。
    そう言えばーーと、公任さんの歌を思い出す。

   「草の庵を誰かたずづねむ」

清少納言は、花の都にいても、斉信様に何故か疎外されていて、まるで
あなたと同じ”草の庵”に居るようで、誰も訪ねてくれない侘住まい中です。
――という意を含めて返歌し、和解の糸口にーー

更に、「新潮日本古典集成、枕草子第77段」の注釈によれば、
清少納言の咄嗟の気配りは

①そのまま「廬山雨夜草庵中」の返しではでは、間が抜けている。公任の句を借用。
 当代随一の歌人公任の袖にかくれることで、斉信、源中将等は反論の余地なし。
②筆跡を云々されるのも迷惑。そこで、消し炭を使用。
③料紙の趣味を云々されるのも不本意。贈られてきた用紙をそのまま拝借。
 以上、歌も筆跡も料紙も反論しどころなし。

又、後日談として:

草の庵の少納言の意で、「草庵少納言」と仇名されたが、本人が「いとわろき名」
と言って無視したため、後世には流布しなかった。

これに反し、紫式部の名のいわれはご承知の通り、下記の通り。
敦成親王の五十日の祝宴で、公任が「紫の物語」の光源氏を気取り、式部を女主人公
と目して「我が紫やさぶらふ」と探し求めてきたが、「この席には源氏の君に似た殿方
は居らっしゃらないので、紫の上もいるわけありません」と相手にしなかった話から、
以後、「紫(の)式部」という上品な呼び名が定着したと言われている。

                                         以上

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