文責:牧野紀元
斉信は、洛外の廬山で侘しく雨の音を聴いていると誇張した漢詩の一節を
贈ってきた。実際は花の都に居ても侘び住まい中だとの意かーーー?
ーーーでは、斉信様の今の気分は”草の庵の侘び住まい”かと察する清少納言。
そう言えばーーと、公任さんの歌を思い出す。
「草の庵を誰かたずづねむ」
清少納言は、花の都にいても、斉信様に何故か疎外されていて、まるで
あなたと同じ”草の庵”に居るようで、誰も訪ねてくれない侘住まい中です。
――という意を含めて返歌し、和解の糸口にーー
更に、「新潮日本古典集成、枕草子第77段」の注釈によれば、
清少納言の咄嗟の気配りは
①そのまま「廬山雨夜草庵中」の返しではでは、間が抜けている。公任の句を借用。
当代随一の歌人公任の袖にかくれることで、斉信、源中将等は反論の余地なし。
②筆跡を云々されるのも迷惑。そこで、消し炭を使用。
③料紙の趣味を云々されるのも不本意。贈られてきた用紙をそのまま拝借。
以上、歌も筆跡も料紙も反論しどころなし。
又、後日談として:
草の庵の少納言の意で、「草庵少納言」と仇名されたが、本人が「いとわろき名」
と言って無視したため、後世には流布しなかった。
これに反し、紫式部の名のいわれはご承知の通り、下記の通り。
敦成親王の五十日の祝宴で、公任が「紫の物語」の光源氏を気取り、式部を女主人公
と目して「我が紫やさぶらふ」と探し求めてきたが、「この席には源氏の君に似た殿方
は居らっしゃらないので、紫の上もいるわけありません」と相手にしなかった話から、
以後、「紫(の)式部」という上品な呼び名が定着したと言われている。
以上