まとめ: 牧野 紀元
西行の最晩年に限って、年表風に纏めました。
1186年 69歳:高野山に在住
東大寺料勧進のため陸奥の国平泉に赴く
年たけてまた越ゆべしと思ひきや
命なりけり小夜の中山
風になびく富士の煙の空に消えて
行方も知らぬわが思ひかな
「空に消える往生」
ー我が第一の自歎歌と自賛の和歌ー
1187年 70歳:嵯峨野に草庵を結ぶ
伊勢神宮に奉納する両自歌合の編纂
宮川歌合 (判詞:俊成) 内宮へ 清書担当:慈円
御裳濯河歌合(判詞:定家) 外宮へ
奉納祈願と共に「和歌起請」即ち歌断ち
1188年 71歳:嵯峨野の草庵にて
千載集に18首入集
1189年 72歳:河内国弘川寺に草庵を結ぶ
比叡山東塔の無動寺に慈円を訪ふ
翌早朝、琵琶湖を眺めつつ、歌断ちの禁を破って、作歌
にほてるや凪たる朝に見渡せば
漕ぎ行く跡の波だにもなし
「海に消える往生」
慈円の応答歌
ほのぼのと近江の海をこぐ舟の
跡なきかたに行く心かな
比叡山横川の恵心院における源信僧都の説話、古今集の
柿本人麻呂歌、万葉歌人沙弥満誓の「漕ぎ行く舟のあとの
白波」に通ずる「和歌は観念の助縁即ち、和歌の言葉でも
仏教の真理を表現できる」
ー出家者&真の歌人、西行の目標ー
1190年 73歳:河内国弘川寺の草庵にて入寂
訪ね来つる宿は木の葉に埋もれて
煙を立つる弘川の里
「けぶり」が火葬即ち死に場所を暗示?
月の行く山に心を送り入れて
闇なるあとの身をいかにせん
「往生を妨げる花への執着」
心は西方浄土に往生しても花(現世)への執着(本体)は断ち
切れない?
同年2月16日、下記の10数年前の歌の如く没
願はくは花のしたにて春死なむ
その如月の望月のころ
2月15日死期を悟った西行は弘川寺の一本の満開の桜のした
に床をしつらえ、真上を見て仰臥。満開の桜に満足しつつ、花
の枝の間から見える満月に往生を願ひ、同夜桜と共に没。
発見は翌16日か?
仏には桜の花を奉れ
我が後の世を人とぶらはば
「往生」
以上