崇徳院と西行の討論、問答要旨   


 時は保元の乱(1156年)から12年、崇徳院没から4年。西行50歳ごろ。

 讃岐白峰陵の崇徳院の墓前におけるひと夜の夢現の物語

入眠幻覚

 「月は出でしかど、茂き(もと)は影をもらさねば、あやなき闇にうらぶれて、
 眠るともなき時に」

 西行は、お墓の前の石の上に座を占めて、夢うつつの中、経文供養をし、

  「松山の浪のけしきはかはらじをかたなく君はなりまさりけり」と歌う。

 この歌に触発されて崇徳院の霊が出現。「(うれ)しくもまうでつるよ」と答えの歌

  「松山の浪にながれてこし船のやがてむなしくなりにけるかな

 西行の諫めの言

  「ひたぶるに隔生即忘(きゃくしょうそくまう)して、仏果円満(ぶつくわゑんまん)の位に昇らせ給へ(成仏を願う)」

 崇徳院、「呵々と笑い」「汝しらず、近来(ちかごろ)の世の乱れは朕がなす事なり」
 つまり西行の怨霊調伏・鎮魂行為に対し、院は魔王の笑いで返された。

 魔王と化した崇徳院と西行との、天皇制の内部の問題(皇位継承)に関する
 問答に移る。

 西行:「保元の御謀反は天の神の教給ふことわりにも違はじとおぼし立たせ
  給ふか。又、みずからの人欲より計策(たばかり)給ふか。
 (つまびらか)に告せ給へ。」

    つまり「王道、王法に則とったものか、人欲、私欲によるものか。」

 崇徳院:「汝聞け、帝位は人の極なり。若し人道、上より乱すときは、
       天の命に応じ、民の望みに順ふて是を伐つ」

     つまり中国の禅譲放伐を肯定する易姓革命論である。
     天の命、民の望みがあれば臣が君を討つことも天意にそう
     との説(孟子)。
     「民の望み」とは「牝鶏(ひんけい)(あした)する代(鳥羽帝の後宮の
     美福門院と待賢門院の暗躍)を批判する民の声の意か」 

 西行:院の易姓革命説に対し、仁徳天皇即位に関する禅譲説話を話し日本古来
    の王道を説く。
     更に、易姓革命を肯定した「孟子」の書は、神意で船が沈み、日本に渡来
    していないとの説を述べて反論。

    「天下は神器なり。人のわたくしをもて奪うとも得べからぬことわりなり。
     ただただ、旧き(あだ)をわすれ給うて、浄土にかへらせ給へ」

 西行の条理を尽くした説得に崇徳院の霊はいったん服するように見えたが、
 かえって論点が変わり、怨霊の中核へ突き入る。

 崇徳院:
  ひいたすら後世のために五部の大乗経をうつし、せめて筆の跡だけでも
  洛の中にと歌う。

  「浜千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く

  悪心懺悔のために写した五部の大乗経を、都へ送ったが、少納言信西の
  はからいで返されたことにこそ、怨みの中心はある。
  ここにこの経を魔道に回向して恨みを晴らそうと、指を破り血をもって願文を
  うつし、経もろとも志戸の海に沈めて魔王となるべき大願を立てたのである。

  即ち魔王となって、平治の乱を起こし、義朝、信頼、信西を討ち、美福門院や
  忠通に祟り、死に至らせたのである。

 西行:

  「君かくまで魔界の悪業につながれて、仏土に奥万里を隔て給へば、
   ふたたびはいはじ」

  即ち、院は大魔王の司霊者に変身し、魔界の悪業に繋がれてをり、おのれの
  個的宗教的論理では最早、どうしようもないと知って再び沈黙。

 崇徳院:

 これを見て、院は怨霊としての力を仮現。さながら魔王の形。あさましくも
 おそろしい姿を現わす。
 又、化鳥「相模」に「かの(平家)讐敵(あたども)ことごとく此の前の海に尽すべし」
 と命ずる。

 西行:

  「よしや君昔の玉の床とてもかからんのちは何にかはせむ

  生きている間に最高権力の玉座にあっても、死はそれを空無化してしまう。
  奈落の底に入れば、この世の階級の区別、王者も武士も農民も無化される
  ことを説く。

 このことばを聞いて、崇徳院の怨霊も鎮まり陰火もようやく消えていった。
 (漸く、死の空無化、無常を悟られたか?)

出眠覚醒

 「十日あまりの月は峰にかくれて、木のくれやみのあやなきに、夢路に
 やすらふが如し。ほどなく、いなのめの明けゆく空にーーー」

 かくして、ひと夜の夢現の物語は終わる。


      参考文献;「上田秋成の古典感覚」(森山重雄著)

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